スーパーのレジで「袋はいりません」と告げるのが日常になって、もう数年が経つ。
欧州を皮切りに、今やカナダやタイなど世界中で当たり前となったレジ袋の規制。日本もその「世界標準」の波に乗ったわけだが、私たちの生活が少し不便になった分、果たして目的であった「海の美しさ」は取り戻されたのだろうか。
ここには、あまりに滑稽で、かつ根深い「暮らしの矛盾」が隠されている。
「効果はわからない」という衝撃の回答
驚くべき事実がある。環境省などがレジ袋有料化の効果について問われた際、その回答は「海洋プラスチックごみが実際にどれだけ減ったか、直接的な因果関係を特定するのは難しい」という、実になんとも歯切れの悪いものだった。
それもそのはずだ。日本の海岸に漂着するプラスチックごみのうち、レジ袋が占める割合は重量ベースでわずか0.4%程度だというデータがある。つまり、日本中のレジ袋を魔法のように一瞬でゼロにしたところで、海に浮かぶゴミの99.6%には何の影響も及ぼさない。最初から「海を綺麗にする」ための手段としては、あまりに微々たるものだったのである。
国側は「これによって国民の意識が変わった」と精神論を説くが、データで語るべき環境政策が「やった感」という雰囲気だけで語られている現状に、私たちはもっと自覚的になるべきではないだろうか。
制度が免罪符になっていないか
本質的な問題は「袋の存在」ではなく「それをどう扱うか」という人間のモラルにある。
適切に分別し、ゴミとして出す人間にとって、レジ袋は家庭での貴重な再利用資源だった。一方で、平気で川や海にゴミを投げ捨てるような人間が、数円を払って買った袋をポイ捨てしなくなるだろうか。むしろ「数円払って買ったんだから、これは俺の所有物だ。どう捨てようが勝手だろう」という歪んだ免罪符を与えてしまっている可能性すらある。
結局、モラルのない人間を制度の網で捕まえることはできず、真面目な人間だけが不便を強いられ、追加の費用を払わされている。この「真面目な人が損をする」という構図こそが、今の日本に漂う停滞感の正体そのものに見えてくる。
目の前の過剰包装という矛盾
さらに矛盾を感じるのは、レジ袋を厳格に制限しながら、その中に入る商品の「過剰包装」は野放しにされている点だ。
プラスチックのトレイ、何層にも重なったラップ、一つひとつを包むビニール。レジ袋一枚を辞退する努力の横で、その何十倍ものプラスチックが「利便性」の名の下に消費されている。
「出口」だけを塞いで「蛇口」を締めない。
この中途半端な姿勢は、海を守るという真摯な願いから出たものというよりは、世界に対して「日本もちゃんとやってますよ」というポーズを取りたかっただけなのではないか、と勘ぐられても仕方のないものだ。
行き着くところは「人間のモラル」
制度で人を縛るのには限界がある。
本当に海を、そしてこの国の景色を美しく保ちたいのであれば、必要なのは数円のレジ袋代ではなく、一人ひとりの「ゴミを捨てない」という当たり前のモラルを再構築することだ。
自分で出したゴミを、最後まで責任を持って見届ける。
そんな子供でも知っているような道徳が、大人の都合で作られた「中途半端な制度」によって、かえって蔑ろにされているような気がしてならない。
制度という「形」を真似ることに躍起になり、一番大切な「心」を置き去りにしていないか。レジ袋のない買い物カゴを抱えながら、私たちはもう一度、この「暮らしの矛盾」と向き合う必要があるのではないだろうか。
