隣の芝生が青く見えるのは、自分の視力が正常である証拠かもしれない。
しかし、その視線の使い方ひとつで、心は重くもなれば、羽が生えたように軽くもなる。
比較は生存のための標準装備
「他人と比べるのはやめなさい」という言葉は、現代の自己啓発において使い古された定説だろう。
確かに、際限のない比較は精神を摩耗させる。
しかし、そもそも「比べる」という行為自体は、人類が過酷な自然界を生き延びるために脳に組み込んだ、極めて優秀な「生存戦略」のひとつでもある。
心理学で「社会的比較理論」と呼ばれるこの仕組みは、原始の時代、集団の中で自分がどの位置にいるかを把握するために不可欠だった。
仲間より足が遅ければ獲物を逃し、周囲の異変に疎ければ外敵に食われてしまう。
つまり、他者の動向を横目で追い、自分を修正する能力こそが、私たちの祖先を今日までつなぎ止めてきたのだ。
現代の私たちが誰かの成功を見て心がざわつくのは、あなたが劣っているからではなく、あなたの脳が「生き延びよう」と懸命にアラートを鳴らしているからに他ならない。
「物差しのミスマッチ」が毒を生む
この生存本能が現代において牙を剥くのは、比較の対象と環境が歪んでしまったときだろう。
特にSNSという窓から覗く世界は、他人の人生の「ハイライトシーン」の寄せ集めに過ぎない。
仕事に追われる日常の中で、誰かの華やかな休暇の断片を自分と比較するのは、言わば東京タワーの展望台からの景色と、自分の部屋の窓からの景色を比べて「なぜ自分の家には地平線が見えないのか」と嘆くようなもだ。
役割も、立っているステージも、背負っている背景も全く異なる相手と、同じ物差しで自分を測れば、心が悲鳴を上げるのは当然の帰結と言えるだろう。
健全な比較、不健全な比較
比較を「毒」にするか「薬」にするかの境界線は、その視線の先に何を見出すかにある。
不健全な比較は、相手の「結果」だけを見て自分の「欠如」を数える。
一方で、建設的な比較は、相手の「プロセス」を見て自分の「可能性」を探ることだ。
比べるべきは、手の届かない雲の上の存在ではなく、自分より半歩、あるいは一歩だけ先を行く人。
その人がなぜそこに至ったのか、どのような工夫をしているのかという「攻略法」を盗む視点を持てば、嫉妬はたちまち「学習のエネルギー」へと変換される。
自分の畑に水をまく勇気
結局のところ、他人の芝生がどれほど鮮やかに見えても、私たちが歩けるのは自分自身の地面だけだ。
他人の芝生の青さに感心するのは自由だが、見入るあまり自分の畑を枯らしてしまっては本末転倒だろう。
「あの人のトマトは赤いな、立派だな」と横目でチラリと眺めたら、そのまま視線を自分の足元に戻し、手元のジョウロで水をまく。
それくらいの距離感でいいのだ。
比較という本能を否定せず、かといって振り回されもしない。
そんな適当な「横目」の使い方が、この情報過多な時代を気楽に、そして着実に歩んでいくための知恵ではないだろうか。
