靴を磨くたびにあの少年を思い出す

旅行・体験記

メキシコという国は、我々日本人が思う以上に靴の文化”が根づいている国である。

もちろん、スニーカーも売られてはいるが、それを日常的に履いているのは子供か観光客ぐらいのもので、街の人々は男女を問わず、きちんとした革靴で足元を整えている。

私はといえば、郷に入っては郷に従えとばかりに、現地で革靴を買い求め、普段から履くようにしていた。

靴磨きは誇りをまとった文化だった

だからだろう、公園や広場には必ずといっていいほど靴磨きの人たちがいる。

しかもただの路上商売ではない。年季の入った職人ともなれば、日除け付きの椅子を用意し、まるで一人前のサロンのような構えで客を迎えている。

一方、若い者や初心者は、木の足を乗せる台と道具箱を手に、公園のベンチを行ったり来たりしている。

ある平日の昼下がり、私はその公園のベンチでひと休みしていた。

すると一人の少年が近づいてきた。年の頃、十六といったところか。

彼は私の靴に目をとめ、「磨きましょうか」と声をかけてきた。

少年のまなざしと小さな手が教えてくれたこと

私はそのとき、別に靴が汚れていたわけではなかったが、ふと何かを感じてお願いすることにした。

靴を台に乗せ、ブラシの音がカサカサと鳴る中で、私は何気なく尋ねた。

「君、学校には行っていないの?」

少年は手を止めずにこう答えた。

「うちはお金がないから、僕が働かないといけないんです」

その瞬間、私はなぜだか目頭が熱くなった。

靴磨きの音が妙に遠くに感じられて、心のどこかに澱のようなものが沈んでいくのを感じた。

そのあとは、近くで祭りがあるという話になって、少年が楽しげにその由来を話してくれた。

その素朴な笑顔を見ながら、私は心の中で何か申し訳なさのようなものを抱えていた。

靴磨きの料金は、日本円にしてわずか百円ほどだった。

私はその対価として、つい二百円のチップを渡してしまった。

「こういうことはしてはいけないんだろうな」と思いつつ、日本人のおじさんには、それくらいのことしかできなかったのだ。

豊さを当り前と思わないために

今の日本では、学校に行けない子どもに出会うことはまずない。

それはつまり、我々がいかに豊かな国に生まれ、育ってきたかという証でもある。

だがその豊かさの中で、我々はつい「当たり前」を見失ってしまうこともある。

この日、あの少年と交わした短いやり取りは、今も私の中でふと蘇ることがある。

鏡に映る自分の靴を見たとき、不意に思い出すのだ

あの公園の陽だまりと、黙々と靴を磨く小さな手のぬくもりを。

結び

「何もできなかった」と悔やむ気持ちもある。

けれど、だからこそ、あのときの感情を忘れずに生きていこうと思うのだ。

せめて、自分の暮らしの中で、豊かさを当然と思わず、誰かのことを考える余白を持ち続けるために。

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