「発音に自信がなくて、英語を話すのが怖いんです」
そんな声を、これまで何度も耳にしてきた。
日本人にとって、正しい発音は“恥をかかないための鎧”なのかもしれない。
けれど私は、そこに少し違和感を覚える。
言葉とは本来、伝えるための道具である。
それを、間違えぬようにと身構えるあまり、口を閉ざしてしまう。
それこそ、本末転倒ではないだろうか。
日本英語に誇りを持て
フィリピン英語がある。インド英語もある。
ならば、日本英語があって何が悪い。
“日本語なまり”を笑う者は、きっと「完璧な英語」を信仰しているのだろう。
だが、そんなものこの世には存在しない。
アクセントも語彙も文法も、英語は話す人の数だけ形がある。
私はそれを、“サムライイングリッシュ”と呼んでいる。
たどたどしくてもいい。
R とLの発音がごっちゃになってもいい。
「発音警察」に怯えるくらいなら、自分の言葉で堂々と話せばいい。
発音は不要ではない。けれど完璧でなくていい
とはいえ、発音など気にせずよいと全肯定する気も、ない。
思い出すのは、メキシコの博物館でのことだ。
あるフランス人のご婦人が、気を利かせて私に英語で展示品の説明をしてくれた。
だが、正直に言えば、彼女のフランスなまりの英語は半分くらいしか聞き取れなかった。
ありがたいと思う気持ちと、
「頼むから、もう少しちゃんと発音してくれ」と思う気持ちが、胸の中でぶつかりあった。
あの時、私は気づいたのだ。
発音は“不要”なのではない。
“伝えるために必要な最低限”は、やはり存在する。
大切なのは伝えたいという気持ち
要は、完璧である必要はないが、伝わる努力はすべきだということだ。
発音の良し悪しに囚われるよりも、まずは“伝えたい”という心を持つこと。
そして、相手にとって聞き取りやすい話し方を、少しずつ身につけてゆくこと。
言葉を学ぶとは、相手と自分の間に“橋を架ける”ということだ。
そこに必要なのは、美しい発音ではなく、歩み寄る勇気なのだろう。
だから私は、サムライイングリッシュで行く
たとえ発音が拙くても、何度も言い直していい。
それでも通じなければ、笑って身振り手振りで伝えればいい。
「伝えること」に真剣であれば、言葉はきっと届く。
完璧な発音よりも、心を届けることのほうが、ずっと大切だと信じている。
だから私は、サムライイングリッシュで行く。
それは、恥じるべき“下手な英語”ではない。
日本人が、自分らしく世界とつながるための、ひとつの誇りあるスタイルなのだ。
英語が下手でも旅はできる