「努力は必ず報われる」と、誰が最初に言い出したのだろう。
いや、正確に言えば、私たちはそう“信じたい”のかもしれない。
報われると信じて努力していた頃
学生の頃、私は信じていた。
目の前のことに黙々と取り組めば、いつか誰かが見ていてくれて、然るべき報いが与えられるのだと。
けれど現実は、そう単純ではなかった。
試験に落ちる。選考に通らない。努力した事実さえ誰の記憶にも残らぬ。
むしろ、上手く立ち回った人間のほうが評価されることだってある。
そのとき私は、心の中で呟いた。
「これは“努力が足りなかった”のではなく、“選ばれなかった”のだ」と。
誰かに評価されることを前提に積み上げた努力は、
評価されぬことで瓦解する。
それは悲しく、そして残酷だ。
報われなかった努力が教えてくれたこと
では、報われなかった努力は、何の意味もなかったのか。
無駄だったのか。
否、そうとも言い切れない気がする。
なぜなら私は、その努力の過程で、
少しだけ「自分を知る」ことができたからである。
報われない努力もある。
けれど、それが無価値とは限らない。
もしかすると「努力は必ず報われる」という言葉は、
真実というより、“願い”なのだろう。
そして私は、その願いの中で、今日もまた手を動かしている。