ヨーロッパの王女たちと国際結婚の宿命
以前、ドラマ『クイーン・メアリー』を視聴した際、かつてのヨーロッパの姫たちが日本の戦国時代さながらに、政治の道具として他国へ嫁いでいく姿に強い印象を受けた。そこでふと一つの疑問が浮かぶ。国境を越え、全く異なる文化圏に身を投じた彼女たちは、一体どのようにして意思疎通を図っていたのだろうか。
史実を紐解くと、スコットランド女王メアリー・ステュアート(1542~1587)は、わずか5歳でフランス宮廷へと送られた。これはフランス王太子との政略結婚を見据えたものだったが、彼女は幼少期からフランス語教育を徹底して受け、宮廷の礼儀作法を完璧に習得した。成人して結婚する頃には、彼女の思考も言語も完全にフランス流となっていたため、コミュニケーションにおいて支障はほとんどなかったと考えられる。
では、成人してから見知らぬ国へ嫁ぐ他の姫たちはどうだったのか。当時のヨーロッパ上流社会では、17世紀以降フランス文化が圧倒的な権威を持っており、外交、文学、宮廷儀礼のすべてにおいてフランス語が「標準」とされていた。さらにそれ以前の時代でも、貴族の子女は教養として共通語であるラテン語を学んでいることが多く、知的な対話の土台は整っていたのである。つまり、王室間の結婚は言語的な準備が事前になされた「高度にシステム化された交流」であったといえる。
日本国内の「国境」という名の巨大な壁
一方で、日本の歴史における嫁入りを振り返ると、これもまた実質的には壮絶な「国を越える」体験であったことがわかる。江戸時代以前、日本は「国(クニ)」と呼ばれる数十の自治体に分断されており、それぞれの境界には関所が存在した。
特に印象的なのは、石田三成の娘(辰姫)が、縁あって北の最果てとも言える津軽藩へ嫁いだ際のエピソードだ。同じ日本語とはいえ、当時の上方言葉(関西弁)と津軽弁は、もはや外国語ほどの隔たりがあった。通訳なしでは日常会話すらままならず、彼女が受けた孤独と衝撃は想像を絶するものだったろう。
さらに日本の場合、困難は言葉だけにとどまらない。食文化や冠婚葬祭の作法、あるいは冬の厳しさといった気候条件までが、地域ごとに劇的に異なっていた。上方から雪深い津軽へ嫁ぐことは、現代の感覚でいえば東京から北欧へ移住する以上の「異世界転生」に近い衝撃だったのではないだろうか。
システム化された欧州、生活に根ざした日本
こうして比較してみると、興味深い差異が見えてくる。ヨーロッパの国際結婚は、フランス語という共通のプラットフォームの上で行われる、いわば「洗練された政治外交」であった。対して日本の国内結婚は、共通語が確立されていない中で方言や土着の習慣がぶつかり合う、極めて「生活に密着したサバイバル」という側面が強かったのである。
メアリー・ステュアートのような悲劇の女王も、確かに政治的な波乱に満ちた生涯を送った。しかし、言葉も通じず雪に閉ざされた地で、慣れない食膳を前にした日本の姫たちの苦労も、それと同じくらい、あるいはそれ以上に切実で勇敢な「冒険」だったと言えるのかもしれない。
