今年も読書週間が始まった。書店はフェアを打ち、図書館は貸出冊数を伸ばす。けれど私は本を読んでいない。
代わりに、ブログを読んでいる。メールを読んでいる。返信を書くために、文章も書いている。
それは“読書”ではないのか?──読書週間に“読まない”という問いを、私は読んでいる。
読書週間という制度の背景
読書週間は1947年、戦後の「知の復興」運動として始まった。
本を読むことが、文化の再建であり、民主主義の土台になる──そんな理念が込められていた。
現在では、出版社・書店・図書館が連携する“文化販促週間”として定着している。
読むことは推奨されるが、読む対象は“本”に限定されているように見える。
「読書=本を読むこと」という前提が、制度の根底にある。
読書の定義は揺らいでいる
私は本を読んでいない。けれど、ブログを読んでいる。メールを読んでいる。SNSの長文投稿を読み、返信のために文章を綴っている。
それは“読書”ではないのか?
AI要約、音声読み上げ、動画解説──読む行為は多様化している。
「読むとは何か?」という問いが、制度より先に進んでいる。
読書週間が想定していない“読む”が、日常にはあふれている。
日本人の読解力と“読む圧”
OECDのPISA調査では、日本人の読解力は乱高下を経験しつつも、最新調査では世界トップレベルにある。
それでも「読書しなきゃ」という圧力は強い。
読めるけど読まない。読んでるけど読書じゃない。
この矛盾は、読書週間という制度が“読む自由”より“読む義務”を強調しているからかもしれない。
「読書週間なのに読んでない」という罪悪感は、制度が生む副作用なのではないか。
読書週間はマーケティングか?
本屋のフェア、図書館のイベント、出版社の販促。
読書週間は「読むことの価値」より「本を売ることの価値」が前面に出る構造になっている。
読むことは自由なはずなのに、「読まなきゃ」という空気が漂う。
それは制度の成功か、制度の限界か。
読書週間は“読む人”のためのものなのか、それとも“読まない人”への圧力なのか。

