十月末の渋谷を通りかかると、街は妙な騒ぎに満ちていた。
交差点は人波で埋め尽くされ、魔女の帽子をかぶった若者や、漆黒のマントを羽織るドラキュラ、猫耳の少女やスーパーヒーローのコスチュームに身を包んだ人々が、まるで流れる川のように歩き回っている。ネオンの光が濡れたアスファルトに反射し、夜空に散らばる仮装の影を揺らす。耳に届くのは、はしゃぐ声、笑い声、カメラのシャッター音、そして遠くから流れてくるハロウィンの曲の断片である。香ばしいホットドッグの匂いや、甘いキャンディの香りも混ざり、街全体が不思議な祝祭の匂いに包まれていた。
少し歩を止め、横目でその光景を眺める。まるで秋の風景の一部のようでありながら、どこか日常ではない奇妙さがある。普段は冷静な渋谷の街も、この日は人々の熱気に飲み込まれているようだった。立ち止まったまま観察していると、衣装の細部に目が行く。小さな子どもたちはパンプキンの帽子を被り、大人は思い思いのキャラクターに変身して、普段の自分を忘れて遊んでいる。友人同士でポーズを取り合い、写真を撮る姿には、確かに楽しげな自由さがあった。
かつてこの祭りは、遥か昔のケルトの収穫祭に由来する。秋の収穫を祝い、死者の霊を慰めるために行われたという説がある。欧米では、子どもや家族を中心にした静かな祭りとして、今も地方の町や村で続いている。しかし日本では、その宗教的な意味や由来はほとんど顧みられず、楽しむことだけが目的となった。街全体がひとつの遊園地のように変貌し、仮装の波に呑み込まれる感覚は、外国人にとっては少々奇異に映るらしい。BBCもこの現象を取り上げ、欧米の子ども向けの祭りが大人によって占拠される光景は珍しいと報じていた。しかし、そこには笑いと好奇心があり、否定的な目ではなく、どこか楽しげな驚きとして受け止められているらしい。

歩きながら、自分も仮装の喧騒に巻き込まれそうになるが、そこには参加しない。ただ、横目で流れるように眺めるだけだ。マントをひるがえすドラキュラ、カラフルなウィッグを揺らす魔女、子どもたちの小さな勇者たち……それぞれの存在が、街の一部として自然に溶け込んでいる。奇妙でありながら、どこか安心感もある。通り過ぎる人々の笑顔や声に触れると、街全体が季節のワクワクを抱えていることが、改めて実感できるのだ。
通りの向こうに見えるスクランブル交差点では、群衆が流れるように交錯し、カメラを構える人々が立ち止まり、シャッターの音がリズムを刻む。時折、吹き抜ける秋の冷たい風が、赤や黄色に色づいた街路樹の葉を舞い上げ、仮装の布やケープを揺らす。その光景は、単なる祭りの喧騒ではなく、季節の色彩と人々の熱気が交わるひとつの風景画のようだ。
ふと、子どもたちの無邪気な声に耳を傾ける。仮装した小さな手がキャンディを求めて伸び、笑い声が連鎖する。親は微笑みながらその様子を見守り、カメラを手に記録する。欧米の静かな家庭中心の祭りと異なり、日本の街はまるで巨大な舞台であり、観客であり、出演者であるすべてが一体となった即興の演劇のようである。
私はその中をゆっくり歩き、思う。宗教や歴史の意味は忘れられたとしても、街に漂う季節の香り、光、音、人々の高揚感には確かに価値がある。楽しむことに貪欲でありながら、同時に自然に季節を感じ取る感覚。仮装の奇妙さに心をくすぐられ、しかしその喧騒に巻き込まれることなく、私は安心して通り過ぎる。渋谷の雑踏の中に、季節のワクワクが確かに漂っていることを、改めて感じた夜だった。

