三日で終わるのは本当にダメか
「どうせ三日坊主だから」と、自分を責めてしまう人は多い。
日記をつけようと思ったけれど三日で終わった。
ランニングを始めてもすぐにサボってしまった。
英語の勉強も続かなかった。
そういう経験は誰にでもある。
けれど考えてみれば、「三日坊主」というのは何もしていない人よりは一歩進んでいる証でもある。
三日間は確かに続けたのだ。
その三日間で、体を動かし、何かを学び、あるいは考えを書き残した。
ゼロと三日では、雲泥の差がある。
続いている人も失敗だらけ
習慣化に成功した人を見ると、自分の弱さが際立つように感じてしまう。
だが実際には、彼らも過去に数えきれない「三日坊主」を積み重ねている。
何十回も挑戦し、そのたびに中途半端で終わった。
その中で、ほんのひとつ二つだけが長く続いたに過ぎない。
だから「三日坊主」は失敗ではなく、次に続く習慣を見つけるための試行錯誤でもある。
三日でも残るものがある
面白いのは、「三日間続ける」だけでも人の感覚は少し変わるということだ。
三日間ランニングをしたら、少なくとも「走るってこういう感覚なんだ」と体が覚える。
三日間日記を書いたら、紙に言葉を残すことの心地よさを知る。
たとえ続かなかったとしても、その小さな経験は自分の中に残る。
そしてある日ふとした拍子に、その感覚が再び立ち上がることがある。
三日坊主を積み重ねよう
つまり、三日坊主は「無駄」ではない。
むしろ人生のあちこちに撒いた小さな種のようなものだ。
芽を出さない種もあるだろう。
だが時間が経つうちに、思いがけず芽吹くものもある。
だから次に何かを始めるときは、「三日坊主でもいい」と心に決めてみると楽になる。
三日続けば十分。
気が向けば四日目にやればいいし、また三日でやめても構わない。
その繰り返しが、やがて習慣になっていく。
完璧を目指さなくてもいい。
三日続けられたら「自分はやった」と胸を張っていい。
むしろ三日坊主をいくつも並べた方が、世界はずっと豊かに見えてくるはずだ。
物事のさわりだけでも経験するだけで十分逸強になると思う。