「便利になった」と、人は言う。
指先ひとつで物が届き、スマホをかざせば改札が開き、つぶやけば誰かが反応する。
この社会は、なんと“自由”に満ちていることか。
かつての時代を思えば、これは革命である。
自分の思いを、不特定多数に即座に届けることができ、移動も買い物も、知識へのアクセスすら制限されない。
それは確かに、かつて夢見た「自由な社会」そのものだ。
──けれど、ふと立ち止まると、私は妙な居心地の悪さを覚える。
今のこの“自由”とは、果たして、誰にも見られていない自由であるだろうか。
あるいは、誰かに見られているという前提で成立する「演じられた自由」ではなかろうか。
スマホは常に私の位置を知り、検索履歴は私の関心を暴き、SNSは私の感情を記録する。
「私はここにいる」と自ら叫ぶ道具は、同時に「私はここにいる」と相手に告げてしまう装置でもある。
たとえば、自由に選んだはずの広告が、実は私の行動パターンから“最適化”されていたとしたら?
たとえば、何気ない発言が、「規約違反」という形で消される世界だったとしたら?
それでも人は言う。
「便利になった。自由になった」と。
自由とは、誰かに与えられるものではない。
だが、監視とは、多くの場合、相手に“気づかせない形”で進行する。
まるでそれは、見えない檻のようだ。
動ける。発言できる。好きに振る舞える。
ただし、そのすべてが「記録される」と知ったとき、人は本当に、心の底から“自由”と呼べるであろうか。
自由とは、孤独であることに耐える力でもある。
だが今の社会は、孤独になる前に、やさしく包み込んでくれる──その代償として、すべてを“見ている”。
それは少し、面白くもあり、
それ以上に、怖くもある話である。