「表現の自由」という言葉を、どこかで耳にしたことがあると思う。
誰にも縛られず、思ったことを発信できる権利──それは、とても力強い響きを持っている。
スマートフォンさえあれば、誰もが発信者になれる時代。
新聞記者でも、作家でもなくても、言葉を持つすべての人に“ペン”が渡された。
けれど、時折ふと、立ち止まって考えることがある。
この“自由”とは、ほんとうに「何を書いてもいい」という意味なのだろうか、と。
言葉には、目に見えない力がある
「ペンは武器だ」という人がいる。
確かに、言葉には刃のような鋭さがある。
直接的に殴られるわけではなくても、心の奥に深く刺さることがある。
ときに、正義の名のもとに放たれた言葉が、どこかの誰かを静かに、でも確実に追い詰めていることもある。
本人にそのつもりがなかったとしても──。
だから、自由とは「好きにしていい」ことではなく、自分の言葉に責任を持てるかどうか──その覚悟なのだと思う。
そして、その覚悟は「書かない」という選択すら含んでいる。
書くということは、誰かの心に触れること
どれほど一方通行に見える文章であっても、書くという行為は、かならず誰かに届いている。
読む人は、ときに傷つき、ときに救われる。
「自分はただ書いただけ」と言い切ることは、本当はできない。
発信する側が想像する以上に、言葉は届いてしまう。
そしてそれは、表現する者に与えられた“見えない義務”でもある。
ほんの少しの想像力と、やさしさを
SNSもブログも、日々の発信は小さなナイフのようなものだ。
切れ味鋭く振るうのはたやすい。けれど、その先に誰かがいる。
ほんの少しでいい。
その誰かの心に、想像力を巡らせてみてほしい。
最後に
自由に書ける。でも、何を書いてもいいわけじゃない。
その言葉が重く感じられるときもあるだろう。
だけど、あなたの言葉が誰かを支える力になるなら──
どうか、大切に。
そっと、届けてほしい。
リンク