言葉が通じない旅が私にとっての「冒険」だった理由
今でこそ英語もスペイン語も旅行で困らない程度には話せるようになった。
現地の人と簡単な会話を交わせるし、ホテルのチェックインもスムーズ。
道に迷ってもGoogleマップと翻訳アプリがあればどうにかなる。
でも、ふとした瞬間に思い出すのは、まだ言葉が全然できなかった頃の旅のこと。なぜだろう?
言葉の壁は、心躍る“冒険”だった
言葉が通じないということは、すべてが挑戦だった。
レストランでメニューが読めず、隣のテーブルを指差して「Same one, please」と伝えたあの日。
すべてが不便で、効率が悪くて……でも、だからこそ心に強く残っているのかもしれない。
言葉を知らないということは、自分の「当たり前」が通じないということ。
そこにあったのは、「頼る勇気」と「伝える工夫」、そして「通じたときの喜び」だ。
心が動いた瞬間が多かったあの頃
言葉が通じないからこそ、笑顔やジェスチャー、人の優しさが心に深く染みた。
道に迷っていたら、最後まで一緒に歩いてくれたおじいさん。
何もわからない私に、時間をかけて説明してくれた店員さん。
その一つひとつの親切が、今でもはっきりと目に浮かんでくる。
流暢な言葉がなくても、人と人はこんなにも通じ合えるんだと知ったのは、あの言葉ができなかった頃の旅だった。
便利すぎる今だからこそ感じる、あの頃の「旅してる感」
もちろん、今の旅がつまらないわけではない。
現地の人とちゃんと会話できることで、より深い交流が生まれるのも事実だ。
でもそのぶん、「迷う」「困る」「頼る」といった感情が減っている気もする。
スマホひとつで何でも分かる時代。
今の時代、翻訳も地図もスマホひとつ。便利にはなったけれど、こちらの記事にもあるように、ちょっとした“不便さ”が心を動かすこともある。
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不自由の中にこそ、旅の「魔法」があった
言葉が通じない旅は、確かに不自由だった。
でも、だからこそ感情が揺さぶられ、心に深く刻まれたのだろう。
スムーズに旅ができるようになった今、あの頃のぎこちなくて必死な自分が、なんだか懐かしい。
次の旅では、また少し「不便」を楽しんでみようかなと思っている。
英語で聞かれたら英語で応えるけれど、それ以外は日本語と現地語で。
最悪翻訳アプリも使うかもしれないが、また笑顔とジェスチャーでどこまで通じるか試してみたい。
旅は、ただの移動じゃない。
予想外の出来事や、通じないもどかしさの中にこそ、本当の「出会い」があるのかもしれない。
あなたの思い出に残っている旅は、どんな旅だろうか?
言葉ができない中で、忘れられない体験をしたことはあるだろうか?
もし今、あの頃の自分に会えるなら、どんな言葉をかけてあげるだろうか?